中国建築史 翻訳

私の研究室の留学生だった方東平氏からいただいた HISTORIC CHINESE ARCHITECTURE
という英語の本を、研究室の文献ゼミで読んでいます。

ここに、いちおう日本語訳をしたものを載せます。


歴史的な中国建築

  中国は、長い歴史と古代文化の遺産を持った国である。 歴史は中国にたくさんの、
古くて傑出した建築上の遺物を残してきた。 それらの遺物は、何千年もの発展の結果であり、
世界の建築物の中で独自の体系にもなった。
   中国の様々な民族の中で、漢民族の建築様式は、最多数、最大規模で、中国建築の
成果を最も象徴するものである。それらの建築物の特別な様式を、これから討論していく。

1.	木製フレームの構造物
   木製フレームは中国の建築様式に2000年前から現れた。漢王朝のお墓と地上の
見張り台の遺跡から、初期の木製フレーム構造が見られる (図1)。今まで残っている建物の
中に一番多いのは木造である。仏教の宝塔や無梁殿、或は地下の納骨所など、これらは
レンガや石で組み立てられたけれど、外観的にはやはり木造風が現してある。中国伝統な
建築の中木造は最高位にあることを立証している。
   早期の木造建物の多くは、次のような三つの基本的な分類に分かれる。それは、
層梁構造、柱梁構造、丸太小屋型構造である。それらは以下にそれぞれ論じられている。

層梁構造(図2): このフレームは建物の基礎の上にある柱の間、奥行き方向に梁を配置
されている形式である。短い垂直の柱がまた梁の上に配置され、追加の梁は短柱の上に
置いてある。木製フレームはそのような層を成す形式で、一層の上又一層で、屋根の上まで
到達する。類似した並立の単位は、梁の末端或は脊柱の間、お互いに方形の梁と棟木で
結びつけてある。屋根全体の重さは、たるき、棟木、縦と横の梁の順で上上と
ささえられ、下は目立つの梁へ任せる。
   4つの柱で共に支えられている2つのそのような木材フレームは、もっとも基本的な
中国建築物の構成単位である‘間’と呼ばれている。建築物の大きさは、間の大きさ(その
奥行きと横幅)とその間の数によって決定される。
  層梁構造は、古代中国の建築において、特に宮殿や寺院のような大型建物と北方の
民居の中に、最も一般的な構造である。

柱梁構造(図3): このタイプのフレームでは、柱は奥行き方向へかなり狭い距離に配置
されてある。横行きの柱の間は梁が配置されてない。棟木は直接柱の先端に置いてある。
フレームは、柱を貫通し、それらをつなぎとめるいくつかの列のつなぎ梁によって造られる。
棟木に加えて、横行き方向の柱の間に、つなぎ材と腕木でつないである。この種類のフレーム
では、屋根の重さが直接、たるきや棟木を通じて、下の支えている柱と地盤につながって
いるが、柱とつなぎ梁は、他の構造物より少ない材木でつかわれている。柱梁構造の規模は
建物の深さによって決定される。より深い建物であれば、使用されるであろう柱の数量はより
大きくなり、屋根もより高くなるであろう。それゆえに、つなぎ梁もより多く必要となる。例えば、
3本の柱、3本の棟木、つなぎ梁の1セット、5本の柱、5本の棟木、つなぎ梁の3セット…. 
9本の柱、9本の棟木、つなぎ梁の4セットでなっている。たいてい柱梁構造の建物は中国
南部の一般的な建造物を代表している。それはまた寺のような南部の大きな構造物の中にも
見られる。

丸太小屋型構造: このタイプのフレームは自然の丸太や角材、多くの縁のある材木で
つみあげて、家や建物の壁を形成する(図4)。しかしながら、多くの木材を使うこの形式は、
木で囲まれた地域でのみ用いられる形式だが、中国ではあまり重要な構造形式ではない。

  古い中国の建築でもっとも重要なのは「斗拱」という受け材の腕木である。これは、すべて
の大型建物-宮殿、霊、そして寺院−木で造られた建物ばかりではなく、レンガ、石そして
釉焼き建物などにもみられる。それは、昔中国大工の独自の創造であると考えられる。
  「斗拱」は、大梁を組み合す、柱先端の「拱」と呼ばれる、短く弓形をし、いくつかの層で
骨組みされた腕木に使用される。2層の「拱」の間に、「斗」と呼ばれる木が置かれる。
「斗」と「拱」の層で構成された形を「斗拱」と呼ぶ。これらは、屋根から張り出された軒を
固定し、それから梁の端を支え、スパンを減らすために利用される(図5)。
  「斗拱」は、早くも紀元前7世紀のころには、記録されその名をあげていた。漢朝の
時計台、絶壁の墓や石でできた浮き彫り彫刻は、、「斗拱」ブランケットの早期の形式を示して
いる(図6)。その形式は、唐、宋朝時代まで十分に発展していた。その形式が統一化された
ばかりでなく、その構成要素のサイズがうまくそれらの製造を容易に統一化させた。「斗拱」の
腕木の構成部材がまったく小さく、計画、建築過程、その「拱」のサイズが他の建築物構成
寸法の基本的な構成単位として使われてきた。12世紀の北宋時代、ある地方役員が
「建築法典」という本を書いてきた。「建築法典」の中に、「拱」のサイズは建築の各部分の
サイズを測り測定基準とを規定してあった。技術の改良により建物の壁はレンガになり、
屋根もひさしが昔よな深さは必要なし、それを支える「斗拱」の役割もしだいに重要なを
もたなくなっていった。
    (第1回おわり)
技術の改良により建物の壁はレンガになり、屋根もひさしが昔よな深さは必要なし、それを
支える「斗拱」の役割もしだいに重要なをもたなくなっていった。それゆえに、斗拱
(ときょう)自体が、より小さくなったのである。よって、ひさしの下の斗拱の
構造上の機能は重要性が少なくなり、それは徐々に半ば装飾品の一部になって
きた。このような理由で、明朝と清朝の建物のひさしの下の斗拱は、唐朝と宋朝の
それらよりもとても小さいのである。斗拱(ときょう)の腕木は時が経つと交換される
ので、今日の古い建築物の研究においては、腕木が使用された時期が建築物の建造
された年代を知る重要な基準となる。一般に、早期の唐朝宋朝の建築物の腕木は、
明確な構造上の機能として広く大きく配置されている。明と清朝の建築物の後、
斗拱の腕木はほとんど小さくくっついてきて、それは、たとえ建物の建築様式で
不可欠な構成要素であっても構造的な役目は目立たなくなってきた。 
  木製フレームをつかった伝統的な中国建築術は、数千年の間続けられました。明らかに、
それは優れた長所があったに違いありません。そのうち1つは、優れた柔軟性です。層梁
構造と柱梁構造どちらにおいても、それらの構造を用いた建築物は、壁よりもむしろ柱によって
支えられており、外側と内側の壁の形状は、実際の多様な事情によって決定される。 
例えば、外側の壁は実際の壁でもいいし――北方では厚い壁であり、南方では木や竹で
出来た“掛け壁”――ドアや窓を持つ壁でもいいし、或は同じ構造が全く壁のないオープンエア
として使うことも出来る。上述した様に、これらの構造は、多くの種類のホールやパビリオンの
異なる要求に満足させられる。室内では、木製壁や折りたたみ式仕切り壁は、隔壁または
ついたてなどを空間で用いられる異なった標示として使用することができる。木製
構造の2つの利点は、比較的耐震性に優れていることである。なぜならば木製フレーム
の大部分は、木材のほぞでつながれており、ほぞ穴の結合部分は柔軟性に富んでいる。
そして、木自体が木製建築物の安全性を増加させるような頑丈さを持っている。もし、
このような建築物が地震のような突然の力を受けた場合、他の建築物に比べて割れたり崩壊
する見込みは少ない。吉賢渡楽(Jixian’s Dule)寺院の観音閣(Guanyin) パビリオンは、
千年間建っている。1976年の唐山(Tangshn)大地震の際に同じ地域の多くの建築物が
崩壊したが、この木造パビリオンは、被害を受けなかった。木構造の三番目の利点は、構造が
便利だということである。 木は、自然の材料です。それはレンガやタイルのように
焼き固めたり、粘土から形作る必要がない。そして他の共通の自然の材料や石材で
使用するより簡単だ。そして、長い間の実践を越えて進化する構成要素のサイズの
標準化のおかけて、大工が決まったこの標準に従って、同時にいくつもの構成要素を
加工できる。気候は、構造物の増加速度ほど障害ではなかった。もちろん、木材構造も
また障害を持っていた。強度と耐久性を欠いた木材は火に対して弱点があり、また水や
昆虫が引き起こす腐敗を受けやすい。歴史を通じて、紫禁城の太和殿を含む数え切れ
ないほどの建築物は、稲妻を受けたり、火事によって破壊されてきた。この重要な
建築物である帝国の邸宅は、火災によって燃やされた後に再建された。南部では、
木造建築物は白蟻によって、ひどく損害を受けていた。木造建築物は、寿命が短いだけ
でなく、木の成長の遅さによっても、れんがや石に比べても、材料として制限されて
いる。それは必ずしもいつでも多量に入手できる訳ではない。封建社会の中央権力の下
でさえ、やがてはスケールの大きい木造建築を続けることが不可能になる。
数千年以上の間ずっと発展してきた木造構造物は、世界の建築の中で珍しい体系と
なった。


U.複合体の中にある建物の配置
  私たちが今日見られる古い中国の建物は、宮殿や寺院と同じ位大きかろうと一軒屋
と同じ位小さかろうと、集団や群れをなしているように見える。現在、いくつかの
展示館や非常に高い仏塔は単独で存在しているように見えるが、現実において、
それらは元は建物の集団の一部としてわずかに残っている建造物だった。
 今中国の北の建築物でもっとも広範囲におよびたくさんの住宅構造物である
“四合院”について調べてみる。これは、住宅建築でもっともありふれた建築物である
(図7)。その名前は四角い広場の四方にある建築物の屋根をつなげてつくられた
中庭の形をもった四つの構造物が本源となっている。一般に、南に面している北側の
建物は“上房”と呼ばれていた。なぜかというと、冬は暖かく、夏は涼しいというとても良い
場所であり、王室の長や老年期の世代の家族に使われていたからである。西や東に面して
いる家は“廂房”と呼ばれていた。また、南側の建物は時々“下房”と呼ばれていた。それは、
子供と使用人用だった。この四合院の入り口は普通南西コーナーに配置されてある。中の
庭園に入る前、入り口にはまず“影壁”と言われる“下房”の南側の壁を対面する。ある場合、
ホールが使われてある。これようなへやの配置は、老人と若者、主人と使用人、といった
上級と下級の階級関係を強調するという古い中国の協定に従ってある。機能上、建物で
囲まれた中庭は、花や木を植える場所であり、安全で静かな環境を作り出していた。建物の
大きさは所有者の経済的な地位によって変わる。領地の役人や富のある有力者は単純な
中庭様式の建物を持つことにもちろん満足できない。その結果、建物は、つけたされた
中庭を形成するために南北方向に付け加えられた、はじめの建物の後ろに。拘束された
空間によって限定された場合は、いくつかの中庭は、東西の方向に隣接された。
しかし、それらが、南北、あるいは東西につながれたかどうかは、このような建造物の
集団の配置によれば、重要な部屋は、すべてのその周りに、基本対称でひとつの軸に
沿って配置された(図8).
  城や大邸宅の中庭の様式は、気候、材料、慣習の違いから、場所ごとによって
さまざまな種類があるようだ。北部では、冬は乾燥していて寒く、夏は涼しい気候で
あり人口密度は低く、中庭は比較的大きい。冬場には、建物に日光がとどく。4つの
側面を持った建築物はまっすぐに連結されていなかった。しかし、熱く湿度の高い
小国で人口が密集した南方では、空間が不足し、中庭を大きくすることが
できなかった。4つの側面を持った建築物は日光、通風そして、建築物同士の連結を
与える小さな中庭の周りに集中させた単一構成要素へ連結されていた。時々は四面の
建物が2階あり、庭をもっと狭く見せる。このタイプの家は、四角い状態であるため、ときどき“
一顆印式”住宅とたとえされてある(図9)。 地域の高原の黄土には、地球で大変特有な“
窖洞式”の住居を建築するのに利用された。 
    (第2回おわり)
時々、1方面もしくは2方面は山や洞窟に穴が掘られ、一方、通常の家は
中庭からそれらとは反対側の周りに建てられた。また、大きな四角の穴が、
四方に洞窟のある地下の中庭とともに地面に掘られた(図10)。
住居の特徴を持つ皇居や寺院のような大型構造物は、中庭も一組として
建築された。これらの個性的で複雑な建設物はとても精巧に造られて
いて、建物の後ろ、その周りに多数の広い中庭が構成されている。中国の
建物は、4つの柱でできた“間”から始まり、“間”のグループが色々
個体の建物を構成し、個体の建物は、中庭の四方に建てられ、色々複雑な
建築を達成する。実際、都市自体はまさに異なる機能が集まった多くの
建物の複合体である。   
  それら規則正しい建物の複合体は、古い中国建築術において重要な形式で
あるが、しかし、その形式しかないではない。山岳地域や地形の入り組んだ場所
においては、建物を規則正しく配置したり、小さな中庭を完全に配置することは必ず
しも可能なことではなく,その配置方法は,地形的利点を考慮すべきである。庭園を
造るにあたって、さまざまな風景を造るために、建物は熟練な技術で配置され
たり、異なる空間を作ったり、まったく通常の配置基準と違ってある。もちろん、
庭園にある大きい或は小さい閣や亭などはこの複雑な建築群の一部うであり、
単独な建物ではないけれど、その建築群の構成方法は宮殿や住宅のとは完全に
違ってある。そのような豊富な方法において、大勢の特質の建築群ができ、中国
建築はひとつユニークな存在になってある。
                                                                              
III.建築の中の芸術
 古い中国建築に芸術が使われるユニークな方法は、全体の外装や、一本の
梁の終端やタイルまで、建物のいたる部分に飾ってある。中国の建築物の
屋根は、それらの木構造のために多少大きく見える。初期の中国の建築家達も
また、木造の独特をの特性を使用し、4つの角にわずかに上に向く軒がある、
そしてむねの上にさまざまな興味を引く動物が配置する。そして、長期の実験
後、彼らもまた、隅棟(すみむね)のある屋根や隅棟と切り妻屋根がある屋根や
単檐屋頂(たんえんおうちょう)や重檐屋頂(じゅうえんおうちょう)や、屋根に特有
の芸術的な特性を持たせた。      月の形をした屋根の内側の梁や、
“バッタの頭”“ゴマの葉”、そして他のおもしろい形をした梁の端を作る
のには、簡単な方法が使われた(図11)。軒並みの瓦の上でさえ、彫刻
された花や植物、鳥や動物などで装飾されており、建築物が楽しく見える
ようになった(図12)。木材を保護するために、木造建築物の風雨に
さらされた木材部分は塗装された。この事により、装飾的な能力を示す
もう一つの機会となったことが証明された。そして、中国の建築の独自性
である「彩画」つまり、装飾をもたらした。
中国の古い建築物の装飾品は、大胆でかつ熟練した色の使い方をして
おり、そして、厚みのある生き生きとした鮮明な色は、唯一伝統的な
中国建築の特性となった。そっくりそのまま見てみると、大きな宮殿の
ホールは白い石が敷かれており、その柱は赤い色をしている。そして、
窓やドア、ひさしの下は深緑色で塗られており屋根の頂上は黄色い瑠璃
タイルで飾られている。全体の鮮明で色彩に富んでいる色は青い空に対
してちらちら光る構成になっている。赤と緑、黄色と青、そして黒と白
のような強い対称の色は調和している。それどころか、それらの色は建物
全体を輝いて見せる。さらに古代の職人もまた熟練した絵筆技術を持ち、
大胆な濃い色を使っている。南部のいくつかの庭園の建物では、壁は
白く、屋根の瓦は緑色で、木で造られた部分は、深い茶色か全く色が
塗られていない状態である。建物は、竹やバナナの木で取り囲まれて
いる。それは、単調な色合いで優雅な庭園をつくりだしている。
今、伝統的な中国建築の一般的な特徴を理解し得ることはで、宮殿,墓,
宗教的建造物,庭園,そして建築上の装飾の特色をより多くの細部まで見る
ことができる。

                                  宮殿建築
  
   封建社会であった中国の長い歴史は、皇帝が物質的世界と精神的世界を
支配していた。皇帝は、国の多くの財源と人材を統制し、当時の多くの進歩した
科学技術を利用した。皇帝は、国を支配するため建物が必要であり、歴史上の
各王朝の宮殿や玄関のような建物は当時の建築学的技術と芸術的技能の
もっとも代表的例である。文書の記録によると咸陽の秦王朝の阿房宮と、長安の
漢王朝の咸陽宮と長安の唐王朝の大明宮はすべて大きな中庭とひと続きの隣接
した大広間そして、高い壇に閣のある立派な宮殿であった。不運にもそれらの
初期の宮殿建築物は長い間に壊されてしまった。ただ、明と清王朝の宮殿建築物
だけが残っている。
  北京の明や清の帝国宮殿は、その国で、現存している完全な宮殿の複合体
の中で最も大きい。1406年から始まった建造物は、14年後の1420年までに
基本的に、完全なものにされた。それは、後に、幾度も修理し、改築された。
私たちが今日見ることができる建物の大部分は、清王朝内に建てられた
わけであるが、その全体のレイアウトは、明王朝により妨げられている。
城全体の面積は、でありそのうち建物の面積は、である。複雑な城の配置
により、中国の封建社会に対し厳しい階級制度の原則を取り入れ、王の
すばらしい権威を表わしたと言われている。
  北京の中央軸に沿って建てられた帝国の宮殿は、明王朝と清王朝の首都
である。最南端の永定門から都市の北にある鐘鼓楼までは7,500
メーターある。永定門から北へ向かい正陽門へと都心部へと向かっては
一本のまっすぐな広い道、道路の東は天壇、西は地壇と皇帝への捧げものを
供える寺がある。
   (第3回おわり)
 正陽門からやってきて大明門を潜り抜け、紫禁城の前門である天安門に着く。
大明門と天安門の間の道は千歩廊と呼ばれる通りで整頓されていて石でできて
いた。通りの側には、王朝に務める建物が並んでいた。天安門の石の通りは、
帝都の前の広場となるため広くなった。その両側はれんが製のアーケードであり、
そして北へ行くと、ライオンの石像、装飾された柱、さらに五つの石橋が帝都、
天安門へと続く門を引き立てている。(図13:紫禁城の計画)もし皇居(紫禁城)の
ような複雑な建築物が、一連の建築学の原則にかなって造られたと認められる
ならば、これは最高の建築物である。
紫禁城に入ってから端門を通りぬけて午門の方へ行くところの、前後は異なる
サイズの2つの中庭であった。前方は正方形になっていて、後方のは細長
かった。後方のものの周りには、市民や軍隊が皇帝に会うために待つ、
または宮殿に仕える人たちによって使用されている建物がある。城壁を抜ける
正面門である午門は、その細長い広場のもっとも北側に配置されてある。
これは、空間の配置において二番目の重要なことであると考えられる。
宮殿の壁の内側を通って皇帝の宮殿に着く。正面には金水河に掛けられた
5つの石橋を通ってかなり広々した広場があった。建物を建築するための
場所を選択するとき古代中国の歴史において、人々は常に南に面した建物で
後方には山、前方には川を持つことを好んでいたが、なぜならこの配置は
それらのニーズにふさわしいからであった。この配置はその後、定着し、縁起の
よい象徴になった。 そのような配置を許さない地形のところは、幸運を表現
するための類似した状況を作り出さなければならない。紫禁城の壁の内側
では、労働者たちは、いくつかの重要な建築物群の前を流された金水河を
掘った。    背景として、壁の北側に丘が集まることになっていた。これは
すべて背山面水(はいすいめんすい)という吉兆の環境を見習っており、そして、
中国建築のデザインとしては頻繁に用いられる象徴的な技術とされている。
太和門を入ると、さらにすばらしい大広場があり、そして三段階の石のプラット
ホームに位置して、前方には太和殿があった。これは、11間の紫禁城の
すばらしいホールで最も重要であった。屋根の棟は地面から35メートル
である。天井、部屋の内側と外側、そして梁は、龍の色付きの絵で覆われて
いる。この、装飾の詳細、または、建築様式の観点から、この絵は宮殿建築
において、最も良いことを意味する。太和殿、それに中和殿と宝和殿を加え、
“前宮”を構成している。これらのホールの中で、封建時代の皇帝たちは、
王座にのぼり、誕生を祝い、重要な命令を与え、そして休暇中の一般や、
軍の役人を集めた。
  乾清門を通って“外宮”の3つの大きなホールの後ろにある“内苑”に入ると、
そこには主に乾清殿、交泰殿、坤寧殿と呼ばれる3つのホールがある。その
ホールは皇帝が普段生活や仕事をしている場である。中庭や、そこの建造物は
外側の宮殿邸宅よりすべて小さい、そして建造物は互いに接近している。中庭内
の後ろには、庭の環境に徹底的に考慮した、石やまれな花々そして木と一緒に塔
やテラス、東洋塔の配置された皇帝の花園があった。
紫禁城の中にある中心軸に沿って並べられた重要な大広間に加えて、一連の
庭園と建物の複合体が両端に面して存在する。西の建物は、皇帝や皇后、
未亡人などに使われる。東には皇帝の妻達が住んだ6つの宮殿と業務用の
他の建物がある。東西の外観には、文化的な物と軍事的な物の2つのホールが
あった。以前の皇帝はよく学者と集まり学んだ。その後皇帝は国家の事態を
話し合うため最高位の大臣達と集まった。清の皇帝高宗が、60年間の皇位を
辞任したとき、寧寿宮として知られている複数の建物一つの小さい庭園が、
内宮の東側に彼のために建てられた。宮殿全体は、皇帝やその家族の
さまざまな要求を満たすためのたくさんの小さな建物を含んでいた。
もし、“四合院”様式の住居が老人と若者、主人と使用人、男と女という家族の
地位の区別を具体化すると言えるならば、それは宮殿においてより一層明白で
ある。そしてそれは、それらの封建的、宗教的な概念をより一層強く含んでいる。
建築物は、皇帝のすばらしい権威を表す方法として用いられた。建造物の集団
とその間隔、またその建造物の様々な型、室内の装飾、そして彩色された
表面は、かつては、このように地位別で表現された。宮殿建築での、かつての
第2の実用的な建造物の利用とは、封建的な皇帝の崇高な権力を表現する
ためのより重要な役割であった。

                                墓の建築様式
                                        
 墓は王の死後には王の大邸宅とみなすことができる。歴史的に王は、それらの
大邸宅(墓)を建造するために財政や人間の多くの資金を費やすばかりではなく、
墓に対して尊大さ配置させたりもした。漢王朝からの記録によれば、それは皇帝
が王位に上った翌年、多くの牧師たちに建てさせた墓であると記されている。
清王朝になってからは宣宗皇帝が王位をとってすぐに河北省尊化に置かれた
清東陵に自分自身のための墓を持っていた。7年後、それが完成したとき彼は
満足しなかった。だからかれは、それを謙譲し平然とした。そして他に、河北省
義県の土地に西陵の墓をたてた。
    (第4回おわり)
史書の記事には、秦の始皇帝の墓に、宮殿とたくさんの高官の宮廷、無数の宝石に相当
する部屋、水銀の川、消えることのない燭光 . . . があったという記録が残されている。
これらの記録は全く信用できないが、発掘されてきた兵士達や馬の絵から、その墓は
匹敵するもののない規模であるようだ。陜西省乾県にある唐朝の乾陵墓と、河南省
gong県にある宋朝の墓において、建築物の外観は壊されたにもかかわらず、廊下の
両側にある石像と動物の肖像、そして規模からこれらの墓は、その時代において、
かなり荘厳な印象を与えたことがわかる。
 お墓の位置の選択は、宮殿の場所を選択するよりも完全に異なる。お墓は、郊外から
遠く離れた静かな丘や森に位置する。従ってお墓は皇帝の死後の宮殿である。それは、
『中庭は前に寝室は後ろに』と言う伝統的なスタイルに従っている。しかし、お墓は
徐々に独自の必要品より独自の構造となっていった。宮廷では、皇帝が、宮廷を統治して
いたとき、(彼の)市民と軍は彼の両脇にひざまずいた。墓においては、それらは、脇に
並ぶ石の人形と石の動物によって表わされた。宮廷では、中央に重要な儀式のための
大きな広間があった。墓には、皇帝のための記念式典の為の広間があった。宮殿では、
皇帝や皇后の生活空間は、宮殿の後ろにある。墓には、実際に皇帝を埋葬するのは墓の
後ろにある。ピラミッド型屋根の地下に、皇帝の棺が埋葬された深い空間を持つ墓石の
塔の後ろに死後の生活空間がある。
 今日、明や清の皇帝の墓は、比較的完全なかたちで保存されている。明の首都が南京
から北京に移動した時、成祖からの13人の皇帝の墓もすべて北京に移動された。
それらは、北京の北方約40kmにある天寿山のふもとに位置付けられている(図14)。
墓は三方を山に囲まれています。その南側が開いています。13この皇帝の墓は、
この丘に囲まれた巨大な墓所に、開け口の東と西と北に分布されてある南への通過の
外側のアーチ道は、小さい土手の場所を定めて、墓の入口であります。そして、
北へ約1300m付近は大きな赤門があり、その後ろに仏塔がある。その仏塔を越えた
1200m付近は神聖な場所で、両側に12ペアの石造の動物や6ペアの石造の人の像が
あります。この道は現実の墓地の入口へ続いている。多数の石の像や石の獣が道の
そばに立ったりひざまずいたりしており、厳粛な雰囲気をもたらしている。神聖な道は
明の皇帝の明成祖の墓である長陵へ、あと4Kmほど北方へ続いている(図15)。
  これは13個の墓の中で、一番大きい。長陵は、靈隠門、靈隠大広間、正方形の壁
がある墓石の塔、ピラミッド状の天井、等を含んでいる。靈隠大広間は、皇帝が彼の
先祖に犠牲を捧げた場所であり、皇宮の太和殿と同等である。それゆえに、それは
また、太和殿と寸法と形が同じである。その広さは、9つの間、そして4つの傾斜して
いる側の重げん屋頂である。それは、三段階のいしの壇に位置しており、しかし石の壇
は高くないので、その正面の地域は、そくばくされているようだ。従って、それは
大和殿の一般的な大胆さはない。他の12個の墓は基本的には長陵のような配置だが、
わずかにスケールが小さい。それぞれの墓のまわりは普通松や糸杉だった、恐ろしく
厳かな雰囲気を漂わせていた。

                                宗教構造物

  仏教は、昔は中国で最も重要な宗教のうちのひとつだった。それはおそらく漢王朝
の間にインドから中国に伝わってきた。5世紀、南北朝の時、仏教はすでにかなり
広まっていた。仏教の教えでは、世間の人は自己の教化を通して、世俗的な自己を放棄し、
この世俗の世界と自己の存在の不安(誕生、老年、病気、死)から解脱すると主張した。
自己育成のようなものを通して、彼らはつかの間の世界から解放され、空虚な世界に
入ることは、死後天国に入り、未来の世界で豊かに、繁栄するため仏陀に到達すること
である。インドのSakymuniは、裕福な王の生活をやめ修道士になり菩提樹の下で
瞑想にふける間に啓蒙を遂げ仏教徒の最高の模範になった。仏教は、人々に苦しみを
感じさせなくするので、その信仰は、中国の歴史のほとんどすべての皇帝によって擁護
され、そして、時折それは、国家の宗教としてさらに促進された。それゆえに、寺院の
建設は、すべての王朝時代において重要な建築活動になった。そして、寺院は中国建築
において重要な位置を占め始めた。
 中国仏教の初期、実際に(仏教の)寺である以前は、役人や貴族が、ホール正面に
仏陀の像を配置したり、ホール後ろに説教部屋を設けたりして、大邸宅あるいは政府
の事務所を寺に変えた。 それゆえ最初から、中国の仏教寺は、ただ一つの建物より
はむしろ中庭の周りに複合の建物の形態を得た。仏教寺は、仏教徒の独特なニーズに
対し(仏教徒にとって)一般的な配置が得られた。前門の内側には最高の守護者たちの
建物、仏陀の建物があり、後ろには聖書を保管している塔があった。これらの建物は
寺院の中央軸に順序正しく一列に並べられていた。その左と右へは瞑想する建物、
訪問者の建物、修道士の居所、その台所そして大食堂などがあった。大きな寺院の
前門の左右には、Arhatsのホールと一緒に鐘楼と鼓楼と中庭があった。寺院の
位置はしばしば遠くの町の郊外や森林の丘のふもとの静かな地域もしくは平らな
場所、また現世の自然環境から離れた場所が選ばれた。木々は寺院の至る所に植え
られた。
   (第5回おわり)

 最も重要なことは、ほとんどの仏教徒の大広間がかなり大きいということである。
いくつかは、承徳の永寧寺のマハヤナパビリオンや、吉賢渡楽寺の観音パビリオンの
ような高い天井と広々とした室内を持つ中層もしくは塔様式のものであった。寺院での
仏陀の状態は、垂れ下がった色つきの長旗が囲み、お香がたかれ、鐘と太鼓の音、
そして床にひざまずいてスートラ(経書)を暗唱するか、気高く神秘的な仏陀の顔を
見つめて祈りを捧げる人達で構成される。
 寺院の建築術の討議は、起源はインドであるパゴダ(仏塔)を含む。それは、
御釈迦様が亡くなり、弟子たちにより火葬にされた時に、御釈迦様の歯や骨は真珠の
ようでした。そして、彼の弟子たちによって、様々な場所に持って行かれ、埋蔵された。
これらの場所は、仏舎利塔として、または、中国のパゴダ(仏塔)として知られてきた。
パゴダ(仏塔)は、ブッダの死体が埋葬された墓にいくらかにていた。それらは、
“ブッダ納骨堂”としてもまた知られている(図16)。ドーム形状をしたこの種類の
ステゥーパ(仏舎利塔)が中国に伝えられた後、中国の伝統的な塔と共に発展し、
次第に中国にしかないパゴタ(仏塔)の型を形付けた。はじめにこの型の塔は、
信奉者によって崇拝されており、雲岡石窟の塔のような仏教の寺院の中央に位置付け
られている(図17)。陜西省のYingxianのお寺である福宮寺(?)で、木造建築物の
場所は中心軸に沿っていて、まだ古い形を保ちつづけている(図18)。しかし、仏像は
後に骨に置きかえられた。仏像の広間は、寺院で最も重要な場所であるパゴダに置き
かえられた。パゴダは、後方の中庭に置くか、あるいは前方の中庭の両側に置くか、
あるいは中庭の片側に沿って並べて付け加えられ置かれた。そしてパゴダの内部には、
埋葬された遺骨に加えて、仏陀の弟子や像、さらに宝石や高価な金属が置かれた。
これらの塔は徐々に仏教の公共の象徴となっていった。
 歴史を通じて塔は進化、発達していろいろな形になった。          
多数の階または、パゴダのタワーパビリオン様式:これは、中国の塔とインドの卒塔婆
結合によって、第一の形状になることを考慮に入れることになりうる。このスタイルは
雲岡石窟の彫刻において、明らかに見ることができる(図17)。その卒塔婆スタイル
の壮麗な建物と輪は塔の屋根上の場所にある。記録によれば、北魏時代の洛陽の永寧寺
には、9段階の正方形で、それぞれの側に3つのドアと6つの窓がある9間の木製の
パゴダを含むそうだ。屋根は、金の円盤で造った11層と金の高価なつぼである。各層
のひさしの四つ角には、風で鳴りそして遠くで聞くことのできる金色の風鐸を吊るした。
不運にも、この木造のパゴダはもう存在していない。しかしながら、この種類の塔式の
パゴダは、いまだ存在するレンガ作りのパゴダの多くの建物に反映されている。例えば
唐時代の7世紀には、西安のXuanzhuang塔や祥吉寺の塔など、宋や遼の時代
には、Yingxian’s 木塔(木造構造)、Suzhou’s Ji’en塔(レンガ立て、外装木)、
Dingxian’s Kaiyuan塔(レンガ立て)、など他にもある。                      
多数のひさしのあるパゴタ:この種類のパゴタは、木で造られた多層のパゴタの
れんがの模倣を単純にしたものから成り立っている。このパゴタの1階の部分は、
比較的、高い、下の土台といっしょになっているものもある。上の階は、多檐
スタイルから成っている。
積み重ねられたレンガは、突き出ているひさしを形成するためによく使われた。
ときには、建築物の木の“斗拱”の外観を手本にして。これらの塔は、正方形や
六角形、八角形などである。塔の中央は、本当の中央と空間の中央の二つの形を
とる。空間の中央には、あらゆる高さの屋根に登ることができる木やブロックの
階段がある。それらは、現在もなお比較的多くのブロックの塔の型にもちいられる。
ラマ様式パゴダ:この種類のパゴダは、チベット仏教から持ちこまれた。その形は、
初期の仏舎利塔を思い出させる。土台の上には、高価なつぼに似ているパゴダの主要部
がある。パゴダの主要部の上には、パゴダの上部をともに形成している輪やドームなど
がある。 その外面は、厚く丈夫で主に白く、離れた所からでもかなり際立っている。
13世紀に元王朝の間に建てられた北京のパゴダのMiaoying寺院は、ラマ教徒の
パゴダの代表的なものである。
仏陀の中心地であるパゴダ:この種類は実際、小さないくつかのパゴダが集まって
できている。北京の正覚寺、西黄寺の清静華城、碧雲寺のパゴダは、すべてこの種類で
ある。多くの小さな塔は1つの正方形または他の形の高台の上に建てられた。これらの
塔のうちいくつかは軒にあった。他のものはラマの様式でそれらの様式は非常に変化に
富んでいた。

   (第6回おわり)

パゴダは一つの塔の中に二種類のスタイルを含んでいるような形もあり、例えば下部は
ラマ風で、上部は多檐スタイル。ただし、この種類のパゴタは風格が統一されて
いないし、数も少なくである。多分これらのパゴタは、再建された際、元のスタイルの
記録が失ったのである。
長い間の実用的な経験により、大工達は仏教徒の寺を造型する際、堅苦しく
こわばった物を作成するよりもむしろ曲線により輪郭を形成させ、単調さを避ける
ために上部と下部に変化を付け、それらの質を高めるために彫刻の飾りつけを加え、
そして、比較的高く他よりも目立つ場所にパゴダの位置を選定するなどして、
それらをより精巧に仕上げるようになった。これらのパコダは仏教にとっての広告
に役立ち、信者を入信させるだけでなく、しばしば彼ら自身の都市、もしくは
地域の古典的な象徴となった。

                                    庭園

長い歴史の中で、中国の庭は独自の特徴や伝統を得ていった。最も簡単なものでは、
丘や谷、山や川、曲がりくねった小道、花や木の自然風景を小さいスケールで似せて
作られた。秦や漢の時以来ずっと中国の皇帝達は、自分たちがデザインした庭を持って
いた。そして、それらの習慣がピークに達したのは、明や清王朝の時代であった。今なお
それらの代表として残る、清王朝の庭の1種類は、皇帝家族の庭である。  例えば、
北京の頤和園や北海、承徳避暑山荘がある。庭の他のタイプとして、土地所有者や
役人、大金持ちの商人などの自宅があげられ、江南地域や、揚子江の南にある蘇州や
無錫の小さめな庭によって例証される。中国の庭を設計した人々は、限られた地域に
おける山や森の自然環境にどのように影響をもたらすかという問題を解決しなければ
ならなかった。中国はこの分野で豊富な経験を得た。次にそのいくつかの原理を挙げる。

1.	地形特性を利用して作ること。中国の庭は、場所の選択方法に考慮し、使い方
に気をつける。明王朝において、庭師の紀成は、『庭造りにおける場所の選択は最初の
事項である』と言う本を論じた。彼が言うには、木で覆われた丘陵地は、人が骨を折ら
ないで自然の趣を持った所を創造するために、理想的のようであります。それは、高所
や低所を持っていて、ねじれた小道や大森林があって、岩がぎざぎざの崖や平地を
持っているからだそうです。それゆえ清の皇帝の乾隆は、円明園に満足していなかったが、
丘に立林されたWengshan Lakeを選び、今日頤和園として知られる“清意園”を建てた。
有り余るほど豊富な湖と川で知られていて、長江の辿り着く一番低い蘇州地域は、
多くの私有の庭がある。しかし、ある庭は起伏に富んでいる所、森林地域にある。
都市では、比較的静かで人里離れた庭は、あるものは門を閉めて内側に庭を造り、
またあるものは都市の外側に移された。そのように壁で囲まれたり、選ばれたりした。
もし、蘇州の 庭が、満ち満ちたる水のある地域のまわりに建てられた独創的な風景の
庭園だったら、多くの水をあまり含んでない地域は、主として土地や建物を使い、庭園
が造られてある。頤和園の昆明湖は独自のWengshan Lake(図19)を再計画することで
拡大された。その後、それはもう一度作り変えられ、新しい景気のよい場所を生み出した。
下級長江の小さな庭でさえも、自然に見えるように、道を通したり、石を積み上げたり、
丘を作ったり、池を掘って、人工的に造っていた庭の光景は、今日でも続いている。
2.	景観の複雑性と多様性。自然の風景は、景観の高いレベルと大いなる多様性に
よって特徴づけられている。だから、人間によってつくられた庭園は、限られた範囲の
中で、あり余るほどの“景観”の特性を見習い、最もよいものに近づかなくてはならない。
東門を通って北京頤和園のに入ると、まず皇帝が聴聞の機会を開いた仁寿殿が入り組んだ
建物群がある。この建物群をぬけた所には、贅沢な昆明湖と、すてきな万寿山がある。
“収放”の技術が、ここにある。万寿山の排雲閣や、昆明湖の竜王寺の仏香閣や17孔橋
は、互いに補うために遠方でほかのものと反響し、山の背景の反対側のすばらしい
広大な風景を形成している。そのような多様な配置は、南側の個人の庭において特に
明らかである。所有地のそのような庭は小さいので、豊富な景色の眺めを造るため、
四つの異なった大きさ、色調、雰囲気の風景を形作るために、複雑でそして様々な技術、
異なった様式の建築、石庭、そして木や花を用いることが特に重要である。
 異なる風景と空間があるということは、その風景と空間、あるいは、そこを
通っている小道を景観のために整える必要がある。頤和園の正面にある丘の長い道
と、その後ろにある湖には地と水の景観がある。人が東端にあるYaoyueの門から
通路に入り、そして前に進むと湖の表面に穏やかに浮いている竜王寺のそとで湖が
ちらちら光っている。遠くにある 知春亭とパゴダからその眺めがはっきりと見える。
廊下の内側の丘の中央まで連続して現れる装飾された建物の壁と中庭の門は広げ
られている。そのてっぺんには堂々とした仏香閣が大きく直立してたっている。
長い廊下の端は後ろが丘になっている。
     (第7回おわり)

ここで湖は次第に広かったり、狭かったりし、時々は両側の建物が非常に近くなる。
船で行ったら、まるで山谷の中に歩くような気がする、ついに又湖が広くなる。秋に
なると、湖の上では金色の葉が浮かんでいる。パビリオンやテラスは、丘や木々の中に
隠されている。小船が北門の区域に到着すると、以前は両側に店が並ぶ賑わいのある
蘇州街があり、石橋が湖にかかり、そして見上げると何重にも重なったラマ式の建物の
景色が見られた。小船は東端に到着したとき、諧趣園の中にある、さらに他の世界を
創っているもう一つの小さい庭をくぐりぬけて入ることができる。この景色の道は、
頤和園の住人にとって重要な景色であり、地形の変化の一部分であることも兼ね備えて
いる。それは、小さな江南の庭の眺めより力強く感じられた。留園の入り口はわずか
40mである。しかし中庭につくまでに3つの異なる場所を通り抜ける(図20)。これらの
小さな庭は、しばしば建物どうしを結びつける廊下や通路として使わたり、あるいは、
出入口として使われる。そして、格子窓を通るとき、連続した景色が存在する。(窓から)
左右に見える景色は、高いところから遠い所で石の丘を登っているのが見えたり、沼の
水に近づき遊んでいるのが見える。その試みは、自然の風景から動きのあるものを作る
ことである。

3.建物の多様な配置と建築学のさまざまなスタイル宮殿や寺院において、完全に
正確で規則的な配列が見られる。しかし、庭で建物は、より鮮やかでそして
さまざまな方法で取り決められる。自然に、建築物の配置法は、機能上の用件を
満足しなければいけない。頤和園の仁寿殿は前面の重要な位置に配置された。
なぜならば、そこは、皇帝が政策を国家と軍隊の役人と決定するために会うホール
だからだ。蘇州の花壇には歓迎の客のためのすばらしいホールがあり、そのホール
は同様に中庭の前に置かなければならなかった。そして、中庭の持ち主が勉強したり、
読書するような勉強部屋は、平穏な場所によく置かれた。しかし、大多数の建物は
休むためや気晴らしのためであり、景観に考慮され置かれた。ホールかパビリオン
が、水か丘の上のそばに配置されるときに重要な考慮は、ホールかパビリオンから
の眺めや、いくつかの他の場所から見た風景にどのように建築物自身が現れるか
ということである。見地と風景の地点のように、この二様の機能は、庭中の建造物
の配置において、根本的なものである。夏季に使われる宮殿の中にある、昆明湖の
東土手の知春亭は、土手の近くの小さい島上に建てられている。そこから見る北の
万寿山;もし西方を見れば、知春亭が姿をあらわす。やや長い絵巻物のような
この眺めは、頤和園の最もよい風景である。万寿山から湖を見ると知春亭は、緑の
ヤナギや船が湖に点を打つような煙を通り抜けて現れる。仏香閣の高さや配置は
頤和園の前山と前湖の風景の配置の中央に作られており、そして壇が位置する
ところは湖や丘を眺めるには優れた場所である。      
  庭の建築物は、使用も美的要求の両方満たし、その形やスタイルは寺院や宮殿建築
よりさまざまになっている。塔、亭、いろいろなホールに加えて、廊下、そして大きな
ホールの形も鮮やかになり、より変化に富んでいる。屋根の形は、天蓋のようなものや
一緒に連結されているものを含んで、より変化に富んでいる。小さなパビリオンと廊下
の様式の変化は、なおさら、豊富にある。それらは、四角形や、多面、扇の形、丸い形
をしている。また、それらの屋根は、一つの軒、二つの軒、三つの軒とある。
パビリオンの橋閣と呼ばれているものは水辺や、小道や、丘の上への道や、丘の上、
もしくは橋の上にある。頤和園の中には40以上のさまざまな種類のパビリオンがある。
700m余りの長廊に加えて、いくつかの短い通路があり、そして中庭のまわりの4つの
部屋をつなぐ周囲の通路がある。庭の端に沿って塀に沿って他の通路があり、そして橋
に面して水の通路などがある。庭園の建物の形を変えることばかりでもなく、ドアや窓
も丁寧に装飾されている。また、外側の小道、橋、石庭、花や植物は、ありあまるほど
にすべて整理されている。建物を明るくする、円形、長方形、あるいは多角形扉や窓が、
優れた骨組みの間を通っているのは、景色を眺めるためである。これらは、中国の
自然を景観様式にした庭園の設計術を利用した原理と技術である。

                            伝統的な中国の建築と装飾

 初期の中国の芸術的な建築様式は、世界中独特であると既に説明されてある。これら
の芸術的様式の要素は、建築物の多くの装飾部分から分けることができない。他の多く
の国のような中国の建築学の装飾は、建物の構成要素の多くに芸術的なものを付け
加えることを必然的にともなう。興味深い動物の形は宮殿と寺院の屋根の棟と軒に
見られる(図21)。実は、主な飾りはもとの構造の必要な部品である。半円筒形の
タイルは屋根の最上から最下まで使われ、すべりない様に積み込み、最下のタイルには
釘を使って固定されてある。雨がこの釘の穴から入って木材を腐蝕する恐れがあるため、
釘の上に蓋が必要だ。優秀な大工はこれらの蓋をさまざまな動物の形で作った。主な
尾根の両端では、何本の尾根が集中するため、これらの尾根を固定するため構造上は
一本の長い釘が必要だ。明らかにこのくぎを保護しているタイルの一部もしくは上薬は、
他の場所よりも大きくなければならない。しかし、これら単純なタイルの部品は、
今日のフクロウタイルから引用されてきた方法だったのか?元来、中国の木造構造物は
雷に打たれたり火災で簡単に壊れてしまった。人々は稲妻の科学的な証拠を持たない頃
から、このような防ぐ方法を使っていた。ふくろうのような形をした伝説上の不可思議
な動物は風で目覚め、雨を引き起こすので、火を消すとされている。それゆえに人々は、
 火災を防ぐために屋根の棟の両端にふくろうのような獣の形状を用いる。この神秘的
方法の始まりは、明らかにその観念形態そして、昔の支配階級による犠牲からなる封建
制度に関係している。当然、この種の方式は、火災における建築物の破壊問題を解決
してはいない。その過程で建物の自然要素に装飾的な色合いを加えるような原理を生み
出し、時代の概念や意識が反映されている。いくらかの建築学の構成部分は、有用な
開発と継続される構造物の改善の面においてそれらの有効性を失ったが、長い間、
構造物の装飾に頻繁に使用され続け、芸術的あるいは発達した新たな様式においても
利用された。屋根の棟の両端にある2つの獣は、初期の魚尾スタイルから清王朝の龍の
口に発達したものだ。迷信的な象徴は、時を越えて姿形を変えても決して変わらない。
宮殿の正面口の金の釘で打たれた赤い門は、宮殿の偉大さを芸術的に表している。
この種の木製の門はbanmenと呼ばれている。そして、それは釘を打つ同種の連結手
と共存共栄しておかれ、木製の板で構成されている。ふたは雨水に木の腐食がおきない
ようにするために、釘の上におかれた。これは門の釘の上への発端であり、半円筒形の
タイルのふたに似ている。それもまた機能的な構成要素である。しかし、のちにこれら
の門の釘は封建制度の意義を引き受けた。たとえば皇居や墓、そして庭園の主要な門は、
赤の門に金の釘と命じられていた。王子や1番目、2番目の階級の役人の邸宅は緑の
門に金の釘、そして3番目やそれ以下の階級の役人の邸宅は黒い門に金の釘とされて
いた。釘の数は階級によってもまた、決まりきったことであった。皇帝の門は、釘が
横に九つ、下に向けて九つ打ち付けられた。すなわち、全部で81個である。つまり、
豪華な邸宅、そして同様に、公の邸宅は、限られた一部の人たちだけが釘を持っていた。
このように、主要な門は、封建的な階級制度の記録として残っている。それから、門の
構造が改良され、そして、限られた一部の人が一つも釘を必要としなかった頃、釘は、
勲章のように保持された。よく着色したペンキは彩色に富んだ塗装のさまざまな様式を
形成した木材を保護したものだ。有名な太和殿の大部分の彩色は、梁にしろ、天井に
しろ、皇帝を象徴している竜、幸運を象徴しているバット、そしてさまざまな幸運な
花や草木から成り立っていた。もちろん建造物の装飾がそのようなイデオロギー内容を
持っていたというわけではない。装飾のいくつかは自然がテーマの彫刻とすばらしい
デザインであった。それらはドアや窓に花のデザインと幾何学的なデザインを含んで
おり、それらの中には桃があったが、長寿を象徴している。そしてデザインはお金の
ためという中国人の特性を含んでいる。 
  古代中国建築物の絵はさまざまなユニークな方法がある。前もって挙げた濃い色や
派手な色の使用はもっとも重要な特徴である。いろ塗りの離れ業は神殿建築物に
はっきりと現れている。青い空、黄色い縁、緑色、赤の円柱そして壁、白い祭壇に
よって建築物の全体は華かに、豪華に見栄えよくみえる。強い色、光の対比の技術、
瓦に対しての暗い青い空、赤い壁と柱に対しての軒の下の暗い緑色、地面と暗い影に
対しての白い石造りの壇、これらは、華々しい配色となる。細部まで見ると、軒より
下の梁は深緑のデザインでペイントされているが、母屋桁の間や、2組の鐘の腕木の間
には赤い詰め物がある。これらの小さな構成要素の中の緑の真中に見える赤は、円柱の
赤に影響してくる。金色の用途は、宮殿装飾に特によくある。金は、ドアや窓の角や
端の金と同様に、しばしば深緑の周りを飾りつける。金そのものは、人目を引くと言う
特性をもっているだけでなく、また別の色とともに全体をカラフルで豪華にすることに
役に立つ。濃くそして輝き、対比しているそして互いに広がっている−それらは、
中国の建造物の装飾において色使いの特徴である。
  その他の彩色の活用を南方の幾つかの建造物で見ることができる。その古典的な
スタイルは江南の私有庭園で見られる。所有者が庭園の中に平穏な自然美と自然環境の
生存
を探求するのは、彼らがそれらの建造物に濃い彩色や強いコントラストの使用を望んで
いなかったからである。黒いタイル、灰色のれんが、濃い茶色い屋根の建築物、雪の
ような白い壁、家の中の赤茶色のかたぎの家具など、その全体の色調は、火災や騒動が
ないとしたら平和そのものだ。あちらこちらにある竹やおおばこ(雑草)や鉢植え植物を
などの花や木々は、内や外においてそれらの構造を引き立たせる。単純な優雅さには
変化に満ちたものもあり、静かさには生命力がある。これは宮殿建築の雰囲気と
まったく異なった環境と効果である。

  伝統的な中国の建築学は中国の人々の文化的な遺産の貴重な部分である。この短い
テキストにおいて我々は徹底的な分析よりむしろ簡単な紹介をすることだけができる。
今日、万里の長城を上にのぼり、尊敬に偉大な技術者たちを思い出したり、青い空の下
の壮麗と複雑な故宮を見つめたり、庭園の中に散歩して湖や山や雲の中の亭を楽しめ
たりする時、私達は先祖の賢い知能とこれらの建物を創造する数多く労働者を感嘆
すべきだ。これらのすばらしい建物はきっと今日の時代にも続いて輝いていくだろう。 
           (8回+9回おわり)